
履 歴 稿 紫 影 子
北海道室蘭編
似湾村から幌別村への引越 3の3
その当時の幌別には、まだ電燈と言うものが無かったので、似湾に住んだ時代と同じように三分芯の洋燈の灯で講義録を読んで居た私が、「義章、戸長さんの所へお父さんを迎えに行っておいで。」と母に言われて、戸長さんの家から千鳥足の父と連れだって帰ったのは午後の八時頃であったのだが、父が二次会の宴席で引受けて来た、戸長が斡旋したのだと言う室蘭の商店に、少年店員として住込むことが、その夜のうちに決定をしたのであった。
その夜、父の話すところによると、松尾と言う戸長さんは、岡山県の人であって郷里では、県会議員をして居た人であったそうだが、何か事業に失敗をして私達と同じ頃(明治四十五年)に渡道をした人であって、その渡道と同時に幌別外二ケ村と言う戸長役場の戸長を拝命した人なのだと言うことであった。

そしてその長男は、北大出身の農学士であって札幌に住んで居ると言って居たが、幌別での家庭は後添だと言って居た夫人と二人きりと言う淋しいものであったので、私達が引越した時には既に室蘭へ進出をして居たが、その夜私が少年店員として奉公をすることに決った山木佐三郎と言う人の店が、未だ幌別に在った時代に、役場に併設されて居る戸長の住宅と近かった関係で、非常に親しく交際をして居たのだそうであったが、その時に当時数えの四歳であった貞子と言う山木さんの長女が戸長夫人にすっかり馴染んでしまって戸長の家に起居をして居たので、店が室蘭に進出をしても、幌別に居残って恰も戸長の実子のように甘えて居たのを、私も二、三度見たことがあった。
そうした関係にあった両家の親交は、山木さんの店が室蘭へ進出をしてからも変らなかったので、戸長さんが関係知己への年始廻りに室蘭へ出た時には必ず山木さんの店へ立寄るのが常であったそうであったが、その年も例によってその山木さんの店へ立寄った際に少年店員の斡旋を頼まれたのだそうであった。そしてその白羽の矢を私に立てて私と言う少年を面接すると言う意味で、宴会の給仕に所望をしたのだ。と言うことであった。

その当時の幌別小学校には、私が憧憬て居た高等科が併設されて居たので、「此処ではヒョットすると、高等科へ進学させて貰えるかも知れんなあ。」と、人知れず喜んで居た私であったが、「義章、折角戸長さんが世話をしてくれたんだから、お前室蘭へ行ってくれ。そうでないとお父さんが困るんだ。」と言う父に、私は自分が抱いて居た夢もそして希望を打ちあけることは出来なかった。
愈愈、私が室蘭の商店へ少年店員として奉公に出る日が来た。 その日は大正五年の一月十日と言う日であったのだが、朝の九時頃に、「さあ義章さん、室蘭へ行きましょう。」と迎えに来た戸長夫人に連れられて私は家を出たのであったが、「義章よ、俺もそのうちに何処かで働くことになると思って居るんだが、お前室蘭へ行ったら体に気をつけて元気でやれよ。」と駅の改札口まで見送ってくれた兄と別れて、私は戸長夫人共共車上の人となった。
N 1991 0149-910113-28 IMGC0149-2. 4. 6

履 歴 稿 紫 影 子
北海道室蘭編 似湾村から幌別村への引越 3の2
幌別についた私達は、駅前の田代と言う旅館に一泊をした。そうしてその翌日から金成と言う人の家に室借生活をすることになったのであったが、家主の初太郎さんと言う人は、愛奴人でこそはあったが、クリスチャンでとても立派な人であった。
また、金成家は往年この地方では酋長の家柄であったのだそうだが、夫婦が揃って共に親切で優しい人達であったが、私を呼んではよく讃美歌を教えてくれた。
室借生活と言うことは、生まれてこのかた此時が初めてであった私には、八畳間一室に六人の家族が住むと言う実態を狭いと言うよりも、他人の家に同居して居ると言うことが、とても嫌な感じであったのだが、父母はより以上の感懐にあったように私は感じて居た。

幌別と言う所は、徳川の幕政時代、既に仙台藩の手によって漁業を主とした開拓が行なわれて居た所だと金成さんが教えてくれたが、私達が引越した時(大正四年)には、村と言っても似湾村のそれとは比較にならない程に発展をして居て、太平洋の海岸線に沿って室蘭から岩見沢へ通じて居る国道の両側が、幌別駅の前から約五十米程直線に行った所で突き当る田代旅館を略中心にして右と左へ、いずれも一粁程の所まで家が軒を並べて居た。そうして陋屋ではあったが裏街も在った。
私達の住んだ金成さんの家は、駅前から田代旅館に突き当った所を左に曲って約八百米程国道を行った所の右側に在って、玄関は国道側に在った。併し私達の出入をする所は、右側の小路へ這入って十米程行った所の左側に在ったのだが、其処から更に五十米程行った所が浜辺であって、兎角荒れがちな冬の海が、私達の住んで居る部屋まで其の海鳴の音の聞える日が多かった。
私は、よくそうした浜辺へ末弟の渡四男を背負って出かけたものであったが、郷里の瀬戸内海のそれとは違って、太平洋の逆巻く怒濤は、「イヤァ、こりゃ凄い海だなあ。」と私を驚かせたものであったが、波打ちぎわにドドッと逆巻くその光景は、その壮観さが私の血を躍らせたものであった。

やがて、幌別へ移転をしたその年も十日余りで暮れて、大正五年の春を迎えた私は、数え年で十五歳と言う少年に成長をした。
それは、お正月の三ヶ日も過ぎて、その当時は宮中新年宴会の日と言って居た一月五日と言う日のことであったのだが、松尾戸長を始めとした戸長役場の全吏員と、長谷川某と言う駐在巡査が駅前から突き当った田代旅館からは、私達の住んで居た方向とは反対に右へ曲った室蘭方面の最端に在った郷社と言う社格の幌別神社の社殿で、新年宴会と称した酒宴を催した日のことであった。
「義章、お父さんはなぁ、今日これから戸長さんを始め役場吏員の皆さんと、幌別神社で新年宴会を開催することになって居るんだ。それでなぁ、お前が酒の酌をする給仕になってくれんか、と戸長さんに頼まれたんだ。その時お父さんは独断でそれを承知してしまったんだ。すまんが、今日一日その酒の酌をする給仕になってくれんか。頼む。」と父に言われたのだが、その時の私としては、“嫌なことだなぁ”と一応は思ったのだが、若し私が、その給仕の役を断ったならば、新任早早の父が困るのだろうと考えたので、「お父さん、俺行きますよ。」と答えて父と共に幌別神社へ行ったのであったが、幌別神社の社殿はさして大きな社殿では無かった。併し松尾戸長以下の役場吏員五人(戸長、父、藤谷、佐野、紺野と言う顔触であった)と駐在巡査、それに伊藤と言う神官を含めた七人の宴席としては充分であった。
正后から始った宴会が、和気靄靄の裡に午後の四時頃終ったので、私は家に帰ったのだが、大人の人達は二次会をするのだからと言って戸長さんの住宅へ這入って行った。

履 歴 稿 紫 影 子
北海道室蘭編
似湾村から幌別村への引越 3の1
私達の家族は、父が転勤したことによって、第二の故郷であった似湾村(現在の勇払郡穂別町字栄)から幌別村(現在の幌別郡幌別町)へ引越した当時の状況を父はその履歴稿に。
一、大正四年十二月十三日、幌別郡各村(幌別村、鷲別村、登別村)戸長役場の筆生(現在はそうした呼称は無い)を命ぜられる。月俸十六円給与、発令官庁は北海道庁室蘭支庁。
一、同年同月十八日、勇払郡似湾村を出発、翌十九日、幌別郡幌別村に到着。家族全員六名(父母と兄、そして私と次弟、末弟)の宿舎その他借家等、万事同郷の先輩藤谷氏の世話に預れり。
因に記す。幌別他二ヶ村戸長役場に転勤したるは、藤谷忠太郎氏(香川県仲多度郡六郷村字塩谷の出身)及び、戸長松尾氏の斡旋に因る。
似湾村出発の前夜、八辻(村医)、広田(請負業)、大矢(小学校校長)、池上(小学校准訓)、山岸(商店主)、二つ屋(売薬店)、田中、高橋、伊藤、小幡(以上四氏は役場吏員)以上の諸氏より、送別の饗宴を受く。
また、出発の当日は下記の諸氏が鵡川川を渡河する似湾船場の所まで見送られたり。 八辻、表(似湾村駅逓経営主)、田辺(役場前の理髪店守主)、山岸、二つ屋、大矢、池上、斉藤(郵便局長の弟であって鍛冶屋を営んで居た)。
十八日午後四時、勇払郡厚真村知決別到着、阿久津旅館に宿泊して特待を受け、翌十九日午前十時、馬鉄(鉄道馬車)にて室蘭本線の早来駅に到着。同駅午後一時七分発の室蘭行列車にて同三時十分幌別駅に到着。駅前の田代旅館に宿泊す。
その翌日、借家(室借)金成初太郎氏宅に居を占む。
と記録をしてある。
* * *

私達の家族が、幌別へ移転をする時に鵡川川を渡河する似湾渡船場まで私を見送ってくれた友人は、愛奴の少年布施次郎が只の一人であった。
「義章さん、俺なぁ、もうこれっきりお前と逢えないような気がするんだがなぁ。お前は遠い所さ行ってしまうんだもんなぁ。俺、お前から貰った本ば大切にするぞ。お前幌別さ行ったら体に気をつけてやれなぁ。」と彼が別れを惜しんでくれたが、その時次郎が言ったように私と次郎は、その日が永遠の別れになって、二人は二度と逢えなかった。
次郎は、父母を始めとした私達を乗せた馬橇が凍結した鵡川川の氷上を渡りきるまでしきりと手を振って、何ごとかを叫んで居たようであったが、大人の人達の声に消されて私の耳には届かなかった。
鵡川川の氷上を渡った馬橇の走る道は、ヤマベ釣りにいつも歩いた道、そして次郎と乗馬で苺を採りに来て、彼が蝮を捕った日にも、この道を往復したと言う思い出の多い道であった。
その日は、生憎と曇天で馬橇の上は寒かった。そして、いつも其の橋畔から沢に降りて釣糸を垂れた、似湾沢の十間橋にさしかかった頃から小雪がチラツキ始めた。
すっかり凍結した似湾沢は、積雪に埋もれて居て、その雪上を往来した山兎の足趾が無数に沢を上下して居たが、馬橇の音に驚いた一羽の兎が橋の下から飛び出してピョンピョンと上流の方へ跳ねて行った。

十軒橋から厚真村との村界になって居た峠の頂上までは、約六粁程の道程があったように思って居るが、幾曲かの坂道を挽馬は首を振り振り登りつめると、馭者の手を待たずに足を止めてフウフウと白い息を吐いて居た激しい呼吸が静まるまでは動かなかったのだが、馭者も無理にはそれを追おうとはしなかった。
「オイ、ノトさん(馭者は愛奴であった)一寸来いよ。馬が休んで居る間に一杯やろうじゃないか。」と馭者を呼んだ父は、餞別に貰った四合壜の日本酒を二人で呑んだのだが、その時「此辺はネェ、夏から秋にかけて時時熊が出るんですよ。」と馭者が父に話をして居たが、十間橋からの此道は初めての私は、「随分恐ろしい道なんだなぁ。だけど矢張り熊の出そうな道だわい。」と独り合点をしたものであったことが、この時の記憶の一つとして今に残って居る。
やがて峠を降りた馬橇が、午後の四時頃に知決別の阿久津旅館に到着をして、私達はその阿久津旅館で一泊をした。そして其の翌朝、十時の馬鉄で室蘭本線の「早来」に出たのであったが、その早来の駅から午後一時七分発の列車に乗って幌別駅まで車上の人となった私は、四年前に北海道へ移住をした時の長途の汽車旅行を思い出しては、しきりと香川県への郷愁を沸かせて居た。
R 1998-125-21,1994-004-1059 M1972-205-2

履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
私の兄と、局長さんの長男 5の5
ガラガラッと硝子戸を開けた私が、「只今。」と声をかけて、兄と二人で玄関を這入ったのだが、茶の間へ上がった兄は、「済みません。」と言って父に頭を下げた。
その時の父は、腕を組んで何か思案をして居たようであったが、そうした兄に、「仕方ないさ。」と、軽く頷いただけではあったが、その顔には前途の生活を憂慮する苦悩の色が漂って居ることを、少年の私にもはっきりと覗がえた。また、「さあ、夕飯を食べましょう。」と、食事を促す母の顔にも、父のそれと同じように憂色の色が濃かった。
それは誰が先と言うことはなしに、それぞれが箸を取ったのではあったが、親子四人の者が、その夜の晩さんを殆んど無言の裡に終わってしまった。
それはその翌朝のことであったのだが、その頃の私は、それを習性とでも言うものか、柱時計が五時を打つと必ず目を醒す少年になって居た、従って、その朝もその五時を打つ音に目醒めた私が、「さあ、起きよう。」と頭を擡げて、久方振に隣った寝床へ寝た兄の寝床を、見るとはなしに目をやると、その兄の寝床は、蛻の殻であったので私は驚いたのであったが、その瞬間ハッとした私の全身は、恰も電気にでも触れたかのような衝撃を受けたものであった。

それは、突然局長が訪れた日の翌朝、弁当を運んだ私に兄が、自分の苦衷を語ったあの日から、私の脳裡を右往左往して居た、「札幌へ出て行って、職を見つける。」と言った兄の言葉であった。
私は脱兎のような勢で茶の間へ飛び出した、その時兄は居た。確かに私の目の前に兄は居てくれた。併し、その時の兄は只一本の明笛と言う愛笛を持って玄関の硝子戸に手をかけて居る、兄の姿であった。
その時の私は、殆んど無我夢中と言った状態で、そうした兄に飛びついた。そうして、「兄さん、行かないでくれ、俺はどんなことでもするから、行かないでくれ。」と、叫びながら「ワアッ」と声をあげて泣き出してしまった。
それまで滅多なことで泣くと言うことを知らない私の泣声を聞いた母が、周章て飛び出して来た、そうして二人のそうした様子を見て、その瞬間は一寸おろおろしたようであったが、やがてキッとなって、「義潔、お前はどうするつもりなの、お前は何処かへ家出をしようとしたのと違うか。このお母さんはなあ、お前の決心がどうしても家出をすると言うのならば、決して止めはせんよ、元気に出て行きなさい。だけどネエ、今、お母さんが言うことを良く聞いてから出て行きなさい。」と、厳然とした態度で言い放つと、その途端に兄は、「お母さん。」と叫んで、玄関の土間に膝をついて、泣き崩れた。
そうした兄に、その時の母が懇々と言い聞かせて居た話の要点は、凡そ次のような内容であった。

私達の家族が明日は遠い未知の北海道へ移民として旅立つと言う日の朝に、福井の伯父(母の実兄であって、香川県綾歌郡法勲寺村と言う所で肥料の問屋を営んで居た当主)が訪れて、その実妹の母に、「お前はどうしても北海道へ行くか、俺は度々言うのであるが、倉太はん(私の父は倉太郎と言う名であったが、福井の伯父はいつもそう呼んで居た)は、頭脳もしっかりして居るし学問もある人じゃがのう、惜しいことに気の小さい人だ、だから北海道へ行ったからとて、とても成功出来る人とは俺には思えんのだ、そうするとお前が苦労をするのは目に見えて居るんだ。だからお前は行かんと残れ。そうして福井の家に帰って来い、法勲寺の村には、お前の田が二反歩あるのだから食べるのには何の心配もない。一番末の子(この時の末っ子は私の次弟の義憲のことである)を連れて別れるんだ、住む家のことは心配をするな、俺がちゃんと建ててやるから、是非そうしろよ、倉太はんとの話は、俺が決着をつけてやるから。」と言ったそうであったが、その時の母は、「兄さん、その親切はとても嬉しいのですが、女は三界に家無しと言う身分です。だから私は、矢張り北海道へ行きます。兄さんの言うとおり、北海道へ行ったからと言っても、とてもじゃないが、成功して帰ると言うような事は出来ないと思うのですが、それでも私は北海道へ行きます。と言うことは、若し私が行かなかったならば、そう言う気の小さい父親と暮す義潔と義章が可哀想です。そうした意味で私は、子供達のために北海道へ死にに行きます。」と言って、肉親の兄が切に勧めた説を退けて、私達兄弟のために母は、未知の北海道へ骨を埋める覚悟で渡道をしたのだ。」と言うことであった。

そうした事情の母が、慈愛に満ちた涙の説得によって、兄の家出は思い止どまったのだが、それからの家庭は、何んとなく薄暗い空気が漂って居て、その朝は、ついに姿を見せなかった父ではあったのだが、その日からの父はしきりと手紙を書く日が続いた。
そうした家庭内の空気の中で、兄の懊悩が日増に募って行くように見えたので、私は何とかして、そうした兄の気を晴したいものと思って、或日兄を似湾沢のヤマベ釣に誘った。
ヤマベ釣は、九月と言う月が最適の季節であったから、兄と連れだって似湾沢へ出かけた十月の上旬も未だその最適と言う期間中であったので、二人の成果は実に素晴しかった。その釣り上げた尾数においては、お互に甲乙が無かったのだが、魚身の大きいのは、何故か兄の餌によく釣れた。
「オイ義章、今日は実に良く釣れて面白かったなあ、曇って居た関係もあるんだべな、馴れない俺にも随分沢山釣れたもんなあ」と言った兄は、大きいヤマベを釣った時の模様を得意そうに、帰る道々を話しながら歩いたのであったが、その日の兄の顔は久々振に晴々として居た。
それは、その夜のことであったが、兄と二人で釣って来たヤマベの大きい物を、白子と共に生酢にした物を酒肴の膳に供えたのを、「さあ、お父さん。」と言って、母が勧めると、父がとても喜んで、「ホウ、この大きいのは、義潔お前が釣ったのか、こんな大きい奴を釣った時は、さぞかし面白かっただろう。」と兄に話しかけると、昨日までは憂鬱そのものであった兄の顔も、その夜は明るく綻びて居たので、「イヤお父さん、今日はまぐれですよ、柳の下にいつも鰌は居ないって言うから、この次は駄目でしょう。」と言って、いとも朗らかに応待をして居た。

その後も、私と兄は3回程似湾沢へヤマベを釣りに行ったが、その都度、相当量のヤマベを釣って帰っては父を喜ばした。
私が約三反歩と言う小出さんの畑の豊作物を、次郎の応援もあって、どうにか収穫を終ると、やがて白鷗が乱舞をする冬が、駈足で訪れて、大地を白一色に塗り潰してしまった。
それは、なにかと物忙しい歳末が身近に迫った十二月の上旬のことであったが、その夜の晩酌に盃を傾けながら、父が「オイ、皆、今度お父さんは幌別と言う所の役場へ転勤することになってこの十八日に引越をすることになったから、お前達は皆で荷物を整理して、それまでに準備をして置けよ。」と突然言ったので、母を始め兄も私も驚いたのだが、「そう、幌別へ転勤をすることに決まったの、そりゃ良かった。幌別へ行けば鉱山もあると言うし、室蘭と言う町も近いのだそうだから、義潔も義章も働けるよ。」と母が言ったので、私は“ああそうか、兄さんが郵便局を辞めたので家計が苦しくなったからか”と引越すと言う理由が即座に判った。そして、それまでの父が、しきりと手紙を書いては文通をして居たのが、転勤運動の書簡であったと言うことも判った。
その頃の私は、その翌週からその頃の似湾としては、豪農の部類に属していた似湾沢の倉淵さんと言う人の家に、作男して住込むことになって居たのだが、父が幌別の役場へ転勤をすることになったので取り止になって、その前途に波乱と曲折の多い春秋が待って居ると言うことを知るよしも無く、十二月十八日の朝に第二の故郷となった似湾村をあとにして、父母を始めとした家族の全員が、新住の地幌別と言う所へ向って出発をしたのであった。
R 2007 IMGR260-03,07,17,27,31,36

履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
私の兄と、局長さんの長男 5の4
父はお祭ということで、晩酌の銚子を倍量の四本を平げた関係で、なかなかのご機嫌であったのだが、終始浮かぬ顔の兄は私が、「兄さん、「浪花節を聞きに行かないかい。」と言って、浪曲へ誘っても、「今夜は郵便局へ早く帰らなければならないから。」と言って、行こうとしないので、私も聞きに行くのを止めた。
柱時計が八時を打つと兄が局へ帰ると言うので、私は神社の前まで見送ったのだが、その道々を私が何かと話しかけても、兄は只小声で気の無い返辞をするだけであって、自分からは何も言い出さなかった。
その年も去年と同じように澄みきった星空であって、片割の月が、私達兄弟を影と共に歩かせて居たのであったが、鳥居の前で別れた兄が次第に遠のいて行くのを私は凝っと見送って居たが、やがて兄の姿は月明の路上に霞んでしまった。
鳥居前の幟は、初秋の夜風にバタバタと音をたててはためいて居たが、昼間人に沸いた相撲場の土俵は、ひっそりとして今は片割の淡い月明の中に、四本柱だけが空しく残って居た。
また人影とても無い参道の両側には、小さな紙張のご神燈が点点と頂上の社殿まで、木立の前に白く浮いて居た。

それは秋祭から一週間程過ぎた或る日の夕刻のことであったが、父は未だ役場を退けて居なかったので、兄の晩ご飯を局へ届けて帰った私が、晩さんの用意が整った食卓の横で、講義録を読みながら父の帰りを待って居た所へ、郵便局の局長さんがひょっこり訪れて来た。
玄関へ出迎えた母が、茶の間へ案内をしてその来意を尋ねると、「義潔さんのことで、綾井さんと相談をしたいことがあって。」と言うことであった。
「義章、お前一寸役場へお父さんを迎えに行って来ておくれ。」と母に言いつかって私は、早速役場へ走ったのであったが、私から局長の来意を聞いた父は、「そうか、そんなら書類を片付けてすぐ帰るから。」と言って早々に机上の書類を整理して居たが、そうした父は、私が帰って間もなく帰って来た。
その夜の局長さんと父との対談内容は、“兄が九月限りの辞表を今日提出したのだが、両親はそれを知って居るかどうかと言う問題と、局長の長男が逓信局所定の教習を修了して、通信事務員と言う資格で正式に似湾の郵便局員として発令をされたので、臨時通信事務員として勤めて居た兄が不要になった、併し、集配人として勤務するぶんには差支えは無い、と言うことであったのに対して、父は別段本人からは何も相談を受けて居ないのだが、そう言う事情ならば是非の無いことだから、辞職をさせて貰いたい”と答えたので、兄の辞職は即時決定をしたのであった。
局長さんは自分の長男が帰ったことによって、私の兄が辞職をすると言うことが、気拙ずかったのか、話が決まると早々に帰って行ったが、傍で此の二人の対談を聞いて居た私は、「ああそうだったのか、辞職をすると言うことを、両親に相談をしたいのだが、家庭の経済事情を考えると、一寸簡単には言い出せないし、と言って今更郵便配達に逆戻りはしたくないので、煩悶をして居たんだな。」と、ここ数日来兄の浮かぬ顔の謎がようやく解けた。

私は「もう遅いから、早く寝なさい。」と、母に言われて早々寝床へ潜ったのだが、当時十三歳と言う自分では、到底解決できない問題であると言うことは判って居ても、兄が郵便局を辞職したならば、これから先はどうすれば良いのか、父の給料だけで我我家族の生活が可能なのか、若し不可能であった場合にはどうなるか、等とまとまりのつかないことを、繰返し繰返し次から次と考えさせられて、容易に睡れなかったのだが、そのうちいつしかウトウトと睡ったようであったが、裏の鶏舎からの鶏鳴に目醒めてからは、遂に眠れぬ儘に朝を迎えてしまった。
翌朝私が朝と昼のご飯を郵便局へ持って行くと、一身上の複雑な煩悶が睡らせなかったものか、寝不足らしい冴えない顔の兄が「昨夜、局長さんが行ったろう、お父さん、怒って居なかったか」と言ったので私は、昨夜の情況を詳しく説明をした。
「ああそうか、お父さんは怒らなかったか、相談をしなければならないと言うことは良く判って居るんだがなあ、俺が辞めたら家が困ると言うことも充分判って居るのだからなあ、とうとう話し出せなかったんだよ、俺もなあ、ずうっと配達をやって居たんであればよ、何んでもないことなんだけどよ、それが臨時と言う身分であってもよ、一度事務員をやってから、また配達に逆戻りをすると言うことは、どうしてもやれんもんなあ、それでもよ、我慢をして配達をやろうかと随分考えたのだけどなあ、どうしてもやる気になれなかったので、とうとう黙って辞表を出してしまったんだよ、だけどなあ、俺と言う男はお前のように百姓もやれなけりゃ、薪作りもようやらんからなあ、だから辞める時には退職の手当をくれると言うから、それを持ってよ、俺は札幌へ出ようと思って居るんだ、そしてなあ、札幌で何か仕事を見つけてよ、食べて行くつもりだから、家のことはなあ、すまんけどお前頼むぞ。」と言って、兄は「ハハハァ」と、力の無い声で笑ったのだが、その顔は涙をこそ流して居なかったが、確かに泣いて居る顔であった。

私は郵便局から帰る道々を、兄の言ったことを、家に帰ってから父母へ話すべきか、べからずかと言うことを考えながら歩いたものであったのだが、そうすれば、父母が心配をするから、その話すことを止めて、若し兄が札幌へ出奔をしようとしたならば、それを私が止めれば良いのだと言う、独自の結論を勝手に出して、そのことを誰にも話をしなかったのだが、兄は三十日の午后八時頃に身廻りの物を持って帰って来た。
家具とかその他の大きな荷物は、朝のご飯を運んだ時に、三回で運べるように荷造をして、その全部を私が持って帰って居たので、兄の身廻品と言えば愛好の明笛が残って居ただけであったのだが、兄はその愛好の明笛を吹奏しながら帰って来たのであった。
その日の家では、兄が今夜帰って来るのだからと言うので、次弟と末弟は寝床の人となって居たが、父母もそして私も、その兄の帰りを待って居たのであったが、私は例によって講義録を読んで居た。すると、そうした私の耳に、“荒城の月”の曲を奏でる明笛のメロデーが聞こえて来たので、「アッ、兄さんが帰って来た」と表へ飛び出して、丁字路の道路を右へ曲がって役場の前まで、夢中になって走った。
「兄さん今帰ったの、お父さんもお母さんも、未だご飯を食べないで待って居るよ。」と私が言ったのへ、「そうか、済まんことだなあ。」と言った兄の声には力が無かった。
